先日、陸奥新報の望遠郷に第3回目の院長のエッセーが掲載されました。
その日は、同じく陸奥新報の2面に「絶望を希望に変える癌治療」の本 の
記事も掲載されました!
今回のテーマは院長の医師としてのお人柄が原稿から伝わってくる内容で、
私達スタッフも身が引き締まる想いで読ませていただきました。
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巨星墜つ
9月19日、悲しい報告を受けた。すい臓がんとがんのリンパ節転移で発症した両側水腎症を克服し、15年間元気に過ごした旧岩木町の齋藤浩さんが逝去された。行年88歳であった。
齋藤さんは1993年2月、左側腹部に激しい痛みを感じ、近くの医院を受診。検査で左尿管閉塞が認められ、弘前大学病院泌尿器科に入院。精密検査で、すい臓がんの浸潤が原因と診断された。
そこで化学療法をするため同院第一内科に転科した翌日、尿管閉塞による急性腎不全に陥る。カテーテルを挿入し、体の外に尿を排せつさせる「腎瘻(じんろう)」を設置したが、激痛は緩和しない。まさに七転八倒の苦しみようだった。
この段階で家族は主治医から、末期のすい臓がんであること、手術はできず長くてあと2、3カ月の命だろうと告知された。家族は打つ手がないのなら患者の側で、何をしてもよいかと尋ねた。主治医は、やりたいことは何をしてもいいと許可したという。
そこで同年4月8日、衰弱のひどい浩さんに代わって弟さんが、私が勤務していた田子町立病院を訪れた。
当時の田子病院は、がん患者が全国から押し寄せ、3~4時間待ちの状態が続いていた。日本癌学会で発表した「癌に対する漢方併用療法」が、多くのマスコミに取り上げられた影響だった。
診察室に入ってきたのが患者ではなく代理と分かると、激怒した記憶がある。しかし、弟さんの必死の頼みに根負けし、細かく病状を聞いて渋々漢方薬を処方した。牛肉、牛乳、乳製品は絶対食べないようを指導した。
漢方薬を服用し始めると、浩さんは激痛が少しずつ和らぎ、食欲が出てきた。この変化に何より驚いたのは本人だった。
がんの告知を受けていなかった浩さんは、検査に追われ、一向に治る気配が見えない大学病院の治療に疑問を抱き始めていた。体調が良くなったのは一 時的なものと思い、すでに死を覚悟していたのである。漢方薬に賭けてみようと決心し、同年4月30日には自宅療養に切り替えた。
同年5月6日、田子病院を訪れた浩さんは、生きる希望を持っていると私は感じた。以後、日に日に回復した。1994年3月1日のCT検査ですい臓がんが消失していることが確認され、腎瘻も自然に抜け落ち、傷も治ってしまった。
多くのがん患者の希望の星だった齋藤浩さん。ありがとうございました。心からご冥福をお祈りいたします。
◇
齋藤さんの悲報の後、また訃報が入った。
弘前大学第二外科学教室に同時入局した塩谷晃先生が9月23日、お亡くなりになったと。木造町立病院と田子病院勤務中に非常にお世話になったのが塩谷先生だった。優秀な外科医であり、暗い雰囲気を一瞬で吹き飛ばすほどの明るい性格の持ち主だった。
天は本当に惜しい人たちを、立て続けに連れて行ってしまった。
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齋藤浩さんは、以前ブログにも書きましたが、
院長が15年前に出版した、「末期癌の治療承ります」の本に、
「末期の膵臓がんが消 えた」症例で書かれている、完治された方です。
私たちも毎年、お元気便りとして、齋藤さんが院長の為に送って下さるリンゴを戴いていました。
毎日、院長や患者さんが与えて下さるお気持ちで私たちスタッフは、
大変な闘病のお役に立てるように頑張らないと!身が引き締まります。
齋藤浩さん、外科医の塩谷晃先生、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
婦長でした。