闘病記、悪夢の始まり(肺癌:男性)

アサガオ

私の人生最大の悪夢が始まったのは1989年10月、間もなく58歳を迎える晩秋でした。勤め先の診療所で、年に1度の定期健康診断を受けた時でし た。これを書いている今はもう2011年春、つまり今から21年以上も前のことです。身体検査を受けて10日ほど後、診療所から突然呼び出され、レントゲ ン写真を見ながら医師に告げられたのは、右肺に妙な影があるので、横浜にある職場指定の病院に行って至急再検査を受けるようにとのことでした。

少しは驚きましたが、咳が出るわけでもなし、自覚症状もまるでありませんでした。それに、まだ私が10代の終戦直後の混乱期に肺浸潤を患って、しば らく寝込んだことがあり、この職場の毎年の身体検査でも、肺に陰があると何度か指摘されたこともあって、多少の不安は感じながらも、わりと軽い気持ちで横 浜のその病院に出かけました。

朝9時頃から夕方までの長い検査の結果下された診断は、肺癌の疑い大で、もしそうであれば肺は病気の進行が早いので、できればこのまま入院してでき る限り早く適切な処置を受けるようにということでした。私は気ままな一人暮らしでしたが、その一人暮らしの慰めに飼っていたペットのマルチーズ犬もいて、 そのまま入院というわけにはいかず、とりあえずその日は帰宅したのです。

翌日、セカンドオピニオンを求めて人づてに評判がよいと聞いていた伊勢原にある東海大相模病院を受診したのですが、結果は同じ診断だったのです。そ れでもまだまだ諦めがつかず、一縷の望みをかけて、次に相模原市にある北里大学病院に行ってみましたが検査の結果はやはり同じでした。万事休すでした。

悩んだ末に、北里大学病院が距離的にも自宅から一番近く、近代的設備もしっかり揃っていることだろうと勝手に判断し、北里大学病院を訪れました。余 談ですが、当時の私は一人暮らしの慰めにマルチーズ犬を飼っていたのですが、始めは1頭だったのが、知人から譲り受けたりで3頭になっていました。

外国人の知り合いから、彼の友人の子供が仔犬を欲しがるので買い与えたけど、暫くしてその仔犬に飽きた子供が、仔犬をボールのように空中に放り投げ て遊び、右前足を骨折させたのに、親が病院にも連れていかず、その上、餌もろくに与えず1日中芝生の上に繋ぎっぱなし、可愛そうで見ていられないので、な んとか貰い手が見つかるまででも暫く面倒を見てくれないかと頼まれて致し方なく引き受けたのが1匹。その後暫くして、アパートで一人暮らしの若い女性が ペットショップで見かけたマルチーズの仔犬を可愛さのあまり衝動的に買ってしまい、住んでいたアパートの大家さんから、犬を飼うならアパートから出てくれ とクレームがつき、その女性に泣く泣く頼まれたりして、3頭のマルチーズ犬の面倒を見ていました。

そんな訳で、北里大学病院では、できればすぐ入院して検査を始めるようにと言われたのですが、事情を説明し手術前の検査をほとんど通院で行い、手術 の日取りも1990年の1月29日と決め、その年の正月休み明けの1月10日に家の近くの動物病院に3頭の犬たちを預けて、入院しました。

前年度の通院でやり残した2、3の手術前の検査をこなし、いよいよ翌週に迫った手術の心の準備もできた1月26日の夕方、医療チームの先生方に呼ば れ、1月29日に手術を予定していたが、どうも今の状態では、このまま手術をしても後々癌が転移の危険性があるので、まず万全を期すために抗癌剤を点滴で 体に入れてからのほうが手術の成功率が高まるとの説明があり、そのために2サイクルの点滴をするので約3カ月余分に入院を要するということでした。

これにはかなりのショックを受けました。あまりに突然でただ驚くばかりでしたが、そのほうがいい、それがあなたのためですといった感じで、ほとんど否応なしに手術が延期されました。もうまな板の鯉の状態でした。

当初、手術を予定していた1月29日の午前9時から急遽抗癌剤の点滴が始まり、ほとんどまる一昼夜の点滴で、だんだん気持ちが悪くなり、吐き気をと もなってきました。それから、1日おいて、今度は体内から抗癌剤を流し出す点滴がまた同じくらいの時間をかけて続きます。その間の、気持ちの悪さは筆舌に 尽くせません。

その後、栄養剤のような点滴が続き、1週間は点滴に苦しめられます。またまた余談ですが、抗癌剤の点滴が始まった1月29日の夕方に、動物病院に預 けた3頭の犬のうち、一番体の弱い足の悪い子が亡くなったと連絡が入りました。一目会って見送ってやりたいし、後の始末もあるので、たとえ数時間でも外出 の許可をもらいたいと主治医に頼んだのですが、答は当然ノーでした。

抗癌剤を入れた日に、まして真冬の寒空にたとえ数時間でも外出などもってのほか、ワンちゃんが貴方の代わりに逝ってくれたと思って我慢してくれと言 われ、当然外出は許可されませんでした。動物病院にお願いし、遺体を府中の動物霊園慈恵院に送り葬儀をして貰いました。その日以来、40数年も吸い続けた 煙草をぴたりとやめることができました。病院のスタッフがいう私の身代わりに逝った子に、せめてもの供養のつもりで、たとえ1日でも2日でも好きな煙草を 我慢しようと思ったのですが、不思議なことに、その日以来、それまで何度もやめようと努力してかなわなかった煙草やめられたのです。

入院中にも何度か医師にも煙草をやめるようにいわれ、さもないと手術をした後、痰が喉に絡み、その痰を除去するのに喉を切って管を通すようなことに なると注意を受けていましたが、言われるまでもなく、何度も煙草をやめようと努力して失敗を重ねたあと、煙草をやめるときは命をやめる時だと思っていたほ どなので、自分でも驚くような、全く不思議なことが起きたものでした。

今では煙草のにおいほど苦手なものはありません。ともあれ苦しい3カ月が過ぎ抗癌剤も医者のいうとおり2サイクルを済ませ、いよいよ4月26日に肺 腺癌の摘出手術を受け、右肺の3分の2を切除しました。経過は至極順調で、痰がからんで苦しむこともなく、一生懸命しぼんだ肺を広げるリハビリに励み、1 日何時間も病院内を歩き、1日も早く退院できるようにとの努力の甲斐あって、手術後19日目の5月15日に退院の許可が出ました。

6月1日には職場復帰も果たし、定期的な病後の検査も何事もなくパスして以前の生活が徐々に戻ってきました。一見、全てが順風満帆のように見えまし たが、私の入院中に動物病院に預けていた残りの2頭の犬が、すっかり痩せて元気がなくなり、別の動物病院に連れて行ったところ、2頭とも栄養失調にかかっ ていて、ほとんど回復は無理といわれてしまいました。

結局、10月18日に1頭が逝ってしまい、残ったほうもいつまで持つかわからないほど痩せて元気がありません。私はその頃、定年まで後1年残ってい たのですが、一大決心の末、希望退職の道を選んでこの子と一緒にいてやろうと、その年の12月31日をもって職を辞しました。それから5年7カ月この子は 病弱ながら15歳の天寿を全うしてくれました。

癌再発?

1990年5月に退院してから、初めの頃は1カ月に1度位のペースで、半年位すぎてからは、2、3カ月に1度、そして1年を過ぎてからは、半年に1 度位のペースで医師の指示通り定期的に検診を受けていました。問題が始まったのは1998年の6月下旬に検診を受けた時でした。

大学病院のつねで、それまで外来の主治医は何人も変わり、その頃の外来の主治医S医師が検診の後いつものように、なにも問題がないようなので、また半年後に来て下さいといわれ、12月に予約をしていつものように安心して帰って来ました。

ところがその頃、居住している町で40歳以上の住民には無料の健康診断が毎年9月初旬に実施されていて、私も毎年近くの小さな診療所で診察を受けて いました。いつものように身長、体重の測定があり、尿検査や心電図、そしてレントゲンを撮って医師の診察を仰ぐという非常に簡単なものですが、レントゲン を見るなり医師がいいました。もちろん診療所の医師も私が肺癌の手術を受けていることはご存知でしたが、レントゲン写真の一部を指さして「この影が変です ね」と言い出したのです。

診療所の先生は専門が糖尿病とかで、私は不安をかき消す為にも、私はつい2カ月ばかり前に北里大学病院で定期検査を受けて、大丈夫と太鼓判を押され て来たことを伝えたのですが、診療所の医師は「問題がなければいいけれど、念のためにもう1度いって診てもらって下さい」といい、その日のうちに予約を 貰って翌日北里大学病院に行きました。

急な予約だったのでいつもの主治医のS医師ではなく、その日の外来を診ていたY教授がやはりレントゲンを見るなり「この間の検診でなぜこれを見逃し たのだろう」とあわてふためいて、とにかく非常にまずい状態のようなので今からすぐ入院の手続きをするようにといわれ、私のほうがあっけにとられるような 状態でした。やはりその時も自覚症状は一切ありませんでした。

1998年9月中旬に、病室が空くのを待って再度北里大学病院に入院しました。またあの苦しい、肺の中に内視鏡を入れて細胞を取り出す検査や、思 いっきり息を吸い込んでその息を最後の最後まで吐き出す、頭の中がまっ白になる検査など、とにかく毎日毎日いろいろな検査を受け、いよいよ手術の日が決ま るころに、病棟の主治医とそのスタッフの医師グループに小さな会議室のような部屋に呼ばれました。

壁の一部に私のCT写真が並んでいて、裏側から電光が当たり胸部写真をくっきり浮き上がらせていました。胸部外科病棟の責任者であるK医師が、その 写真の一部を指さして言いました。「Tさん、言いにくいのですが、あなたの肺には、もうすっかり胸水が溜まっていて癌をひたひたと浸している状態なので、 もう全身に癌が転移していると思われます。もう手術をしても手遅れの状態だと我々は判断しました。それでも、もしTさんが手術を希望されるのであれば、手 術はやりますが、とりあえず今日は、まず胸水を除去しましょう。胸水が溜まるとだんだん苦しくなるので、少しでも楽になるように今から胸水の除去をやりま す」

肺腺癌の再発であれ新しい癌であれ、一人暮らしで近い身寄りもない身の上の私は、いよいよ年貢の納め時と、かねてから覚悟を決めていたので、もし最 悪の事態になった時は隠さずはっきりと伝えて欲しいとスタッフの先生方に強くお願いしてありました。そこで彼らも話しやすかったのか、割合簡単にすらすら と、もう手の施しようがないと宣告されました。

その後処置室に連れて行かれ、熱や血圧を測った後に、太い注射針で背中から胸水を抜かれました。ゴボゴボといった音を立てて胸水を抜きながら、K医 師が「Tさんは、本当にタフだね。こんな話を聞いた後でも血圧も脈拍も乱れていないなんて」と言いました。褒められているのか、鈍感だと言われているの か、判断に窮してさすがに返す言葉はありませんでした。

最後通告を受けたその日は金曜日でしたが、病室に戻った私は、どうせ長くない命なら、たとえ一人暮らしといえどもやらなければいけないこともある し、たとえわずかな財産でもそれなりに処置を考えなければならないし、あれやこれやと思案するうちに、意味なく入院を続けても仕方がないと思い、その日の うちにK医師に明日にでも退院させて欲しいと申し出ました。

土曜日には原則として入退院の手続きは取れないことになっていましたが、K医師は特別扱いで退院を許可してくれました。私は、さすがに一人では不安 になって、友人のYさんに電話して、退院に手を貸して欲しい旨を頼みました。彼は驚いて、その夜のうちに病院に飛んで来てくれたので、2人で病院のレスト ランに行き、私にとっては久しぶりのビールやらピザなどを食べながら、彼に詳しくK医師にいわれた通りの病状を説明しました。

時折、Yさんは涙を浮かべながら、私の話を聞いてくれました。その日の夜のエピソードがまた傑作でした。病院では糖尿病のコントロールを受けていた 私が、その夜、ビールやらピザやら思い切り飲み食いしたものだから、就寝前に測った尿検査でプラス4の結果が出たのを、看護師に話したところ、彼女が慌て てK医師のところへ報告に飛んで行きました。

以前にも1度このようなことがあって、その時はK医師の指示だといってインシュリンの注射針を持って来た彼女に、突然ブスっとやられたことがあった のですが、今度はにこやかな顔で戻って来た彼女は「K先生が、Tさんはもう何でもお好きな物をお好きなだけ召し上がって結構ですとおっしゃいました」と言 いました。病気のことも忘れて思わず吹き出してしまったものです。

退院そして再入院

翌朝K医師に「胸水が溜まって苦しくなったら我慢しないですぐ病院に来るように」と注意され、Yさんに助けられながら救急病棟で退院手続きをとっ て、どうにか退院できました。退院して1日、2日経った頃、隣家の奥さんが横内先生の著書「末期癌の治療承ります」を携えて見舞いに来てくれました。すっ かり生きることを諦めかけていた私でしたが、隣家の奥さんが帰られた後、夢中で横内先生のご本を読み切った私は、このまま何もしないで死ぬ日を待つより1 度横内先生に診て戴こうと、すぐに横内医院に電話をかけました。

ですが、電話を受けた女性から返って来た答えは、「全国の医者に見放された患者さんが大勢先生の診察をお待ちなので、半年位はお待ち頂くようになり ます。取りあえず、病院で撮ったレントゲンやCT写真などがあれば、持って来るか、送っていただければ、先生がそれを見て病状を判断し、漢方薬を処方して 下さるので、診察ができる日までそれを飲みながら待つようにすればどうですか」と言われました。

正直いって、その提案にはがっくりきましたが、ともかくすぐに北里大学病院に電話し、病棟のK医師にそれらの写真のコピーを作って欲しいと頼みまし た。横内先生の著書「究極の癌治療」を本屋さんから取り寄せて、ちょうど読み終わった頃に、北里からレントゲン写真のコピーができたので取りに来るように との連絡が入り、Yさんに付き添ってもらい、北里に出向きました。その時、レントゲン科の技師に、S医師ができれば1度会って話がしたいので、帰りに ちょっと病棟に来てほしいとの伝言があり、S医師の待つ病棟に寄りました。

S医師は定期検診の際に、私のこの状況を見過ごしたという自責の念があったのかと思うのですが、少しバツが悪そうにしながら、再会の挨拶もそこそこ に「この間は病棟のスタッフがもう手遅れだといったけど、やっぱりどうしても気になるので、入院の際にやり残した骨シンチの検査を通院でもいいから受けて みてくれないか」といいだしたのです。

もう手遅れだと言われたのは私で、言ったのはS医師の部下のスタッフたちです。私は自分から入院や手術がいやで退院したわけではないので、今さら何 をと思いましたが、S医師のたっての申し出だったのでその検査を受けることを承知しました。その結果を見ながら背骨の一部を指してS医師が言うには「やは りこの骨の部分に癌が転移しているようです」とのこと。

ですが、S医師の指さすその部分を見たとき、ふと私は過去にあった大きな自動車事故が思い当たりました。仕事の都合で埼玉県の所沢市から神奈川県の 相模原市まで、暫く車で通勤していたことがあったのですが、1969年の秋に、通勤途中の府中市で、ダンプカーの後ろで信号待ちをしていたときに、後部か らダンプカーに追突され、ダンプカーとダンプカーの間にはさまれ、乗っていた車が滅茶苦茶につぶれ、九死に一生を得たことがあります。

首から背中を強打して、気が付いた時は、甲州街道沿いの救急病院のペッドの上でした。S医師が指摘した背骨の部分はそのとき以来、時々痛んで苦しん できた場所でした。そのことをS医師につげ、もしそれが癌の転移ではなく事故の後遺症だとしたらしたらどうなのかと伺ったところ、「僕でよければ思い切っ て手術をしてみますか。もし手術をするなら手術の日取りを決めて前日にでも入院すればいい」といわれ、1998年11月29日に再々入院し、ただ何があっ ても抗癌剤だけは一切使用しないという条件だけをつけて、翌30日にS医師の執刀で右肺残りの3分の1切除の手術を受けました。

かなり長時間の手術でした。夜遅くになって疲れた顔のS医師が見えて「1度目の手術の癒着がひどくて、それが結構大変で、もうくたくたですよ」と、 それでも満足そうににっこり笑ってくれました。手術が成功したとかダメだったとかの会話は一切ありませんでしたが、それはそれで彼の笑顔に何故かほっとし たことを覚えています。

ところが、その手術後6日が過ぎた日曜日の午後、こんな状況でも1日でも早く家に帰りたい気分で、一生懸命病院の廊下で歩行訓練をしていたときでし た。突然目の前が真っ暗になり、病室に辿り着くのがやっとの状況で、同室の人が大声で看護師を呼んだりしているのをかすかに耳にしながら意識が薄らいで いったのです。

気が付いたときには見知らぬ医師が手当をしていてくれて、今日は日曜なので、胸部外科の先生たちがいないので、自分は内科の医師だがこうして応急手 当てをしていること、詳しくは分からないが、多分手術の際、毛細血管が癒着していたので、それをはがしたために少しずつ流れ出た血液が背中に回って溜ま り、棒のように背中に張り付いてしまったようです。多分再手術が必要だと思うと内科の医師から説明を受けました。その夜遅くには病棟のK医師が現れて、明 日、スケジュールされている手術が終わった後に、再手術をすると申し渡されました。否応なしの絶体絶命でした。

翌日、夕方からナースステーションに移され、いつものようにいろいろ手術の準備が施され、そのときが来るのを待っていました。K医師が現れて、輸血 用血液を点滴棒にぶら下げる用意を始めました。以前の2回の手術では輸血の記憶はありませんが、この輸血用の血液の容器に記載された血液型を妙に落ち着た 気分で間違いがないか確認している自分に驚いたのを覚えています。そして夜8時頃、3回目の手術のときがやって来ました。この時は、あの思い出しても恐ろ しい時間が迫っているとも知らずにいました。

痛い、痛い、無性に痛いと思いながらふと気が付くと、頭の上に大きなライトが煌々と照らしていて、手術台に乗せられている私の周りに大勢の医師や看 護師たちが見えました。痛さをこらえ、思わず身動きしようとした私に気付いてそばの看護師が「あら、気が付いたのね。もう少しで終わるから我慢してね」と 声をかけてきました。

つまり、まだ手術が終わる前に麻酔が覚めてしまったのです。ほどなくして手術は終わったのですが、手術台からストレッチャーにうつす時に、そのなか のひとりが、無駄な血液を廃棄するために体に繋いだパイプを思い切り引っ張ったものだからその痛さが頂点に達してしまった私は、思わず「痛いな!馬鹿野 郎」と大声をあげてしまいました。

後で聞いたことですが、前回の手術からまだ一週間しかたってないので、十分な麻酔が使えなかったとのことでしたが、手術前にそんな説明はなにひとつ ありませんでした。もっともそんな説明を手術前にされたら、さすがの私もかなり怖気づいたことでしょうが……。ナースステーションに戻った時に見た壁の時 計は、真夜中の12時30分を指していました。心配してずっとそばについていてくれたYさんも、私が余りに痛がるので看護師に何度か痛みを和らげる処置を してくれないかと頼んでいたようですが、こんな修羅場にすっかり慣れているのか、医師の命令を受けているのか、看護師たちに適当にあしらわれていたようで す。

やがて、朝が来て病棟の医師のひとりが現れて「Tさん、どうですか。大変でしたね」と慰めてくれた時の話では「あばら骨を何本も抜いたので本当に痛 い思いをしたね」でした。そんな話はその時初めて知りました。その時のあばら骨の痛さは、今もときどき気候などの加減か、刺すような痛さで悩まされるし、 特に夜寝ていて寝返りを打ったときなどに飛び上るほど痛むことがあります。とにかくその夜は地獄をさまよっているような夜でした。

横内先生との出会い

入院が続いて、1998年の暮れも押し迫って来ましたが、まだ退院出来ないでいた私に、S医師に誰か面倒を見てくれる人がいたら、お正月の三が日は 外泊してもいいですと言われたので、その頃リストラの憂き目を見ていたYさんが、高いマンションの部屋を借りていて無駄をするより、私の家の一部屋を提供 するのでゆっくり職探しをするようにという私のオファーをこころよく受けてくれて、私の入院中に、私の家に移り住んでいたYさんにその旨の電話を入れまし た。

12月31日の午前、Yさんが迎えに来てくれて、久しぶりに我が家に戻りました。久しぶりに我が家の風呂で手足を伸ばしジャグジーのスイッチを入れ た時の快感はえも言われませんでした。病院では手術後の風呂でばい菌が入って、傷口の治癒が遅れ、退院が長引くケースを垣間見たりして、風呂は最小限度に 控えていた私に病棟のK医師に風呂嫌いのTさんと言われたこともありましたが、人一倍風呂好きの私がどれだけこの瞬間を待ち望んだことでしょう。

その気持ちの良さは久しぶりに味わう幸せでした。それに、Yさんも私と同じで一人暮らしが長かったので、結構器用に家事とか料理とかが得意で、久し 振りに帰宅した私を正月らしい御馳走で迎えてくれ、人の心の温かさに心から感謝したものです。年が明けて1月半ば、しっかり面倒を見てくれるというK医師 との約束で、もう駄目かと覚悟していた退院が許されましたが、その頃には病気前には70キロあった体重も50キロそこそこまで落ちて、ちょっと動くと呼吸 が苦しく、杖にすがってゆっくりゆっくり歩くのがやっとの状態でした。

3月の初めに、横内医院から突然電話を頂いて「3月16日に予約のキャンセルがあり、先生の診察を受けられるけど来られますか?」との連絡をいただ き、思っていたよりも何カ月か早く横内先生に診て頂ける日が来ました。いわれたとおりに何枚かのレントゲン写真やら、普段飲んでいる水、病院から貰ってい る薬等を携えて、Yさんに付き添われて住まいのある相模原から電車に乗り、新宿で乗り換えた総武線で東中野に降り立った時は、もう一歩も前に進めないくら い疲れ切っていました。

横内医院にやっとの思いでたどり着き、ほどなく診察室に呼ばれたとき、私にとって不可思議な現象が起きました。まだ3月半ばの寒い時期だったのに、診察室に入るなり、体中が温かく、いやむしろ熱くなって呼吸も随分楽になり、何かほっとしたような感覚に包まれました。

思わずそのことを先生に申し上げたところ「此処には僕の気がみなぎっていますよ」といわれたことを今でもはっきり覚えています。ただ、その後、本当 にショックだったことは、パワーテストでの診断の結果、すっかり除去したはずの右肺に癌細胞がまだ残っているばかりか、左の肺にも転移していると横内先生 にいわれたこと、やっぱりどんなに頑張ってみても、そう長くはないなと実感させられたことです。

しかしその後、横内先生が、こんなにボロボロの私に「Tさんには、生きる気力がまだまだ残っているので、必ず元気になれるので頑張りましょう」と いって頂き、普段の生活のあり方、つまり守らなければいけないこと、また反対にやってはいけないことを、微に入り細にわたって説明を受けました。それは、 食事での注意、つまり食材とか使用する水など、食事はできる限り正座でよく噛んで食べること、重金属排除にパセリを多く食べること、横内先生特製の電磁波 被爆をブロックするアイテムを肌身離さず身に着けること、これまた横内先生特製の気入りの布を毎朝頭部の脳戸及び百会に3分間以上当てること、屋外にいる 時間を少なくとも午前、午後共に30分以上にすることを教わりました」。

また反対にやってはいけないことは、煙草などは吸わぬこと、不適食品、例えば牛肉、乳製品、玄米等は決して口にしないこと、入れ歯などに重金属は使 わぬこと等々、詳しく説明を受けました。そして横内先生の先生の気が入った小さな布状のものを手首とか耳の中など、治療のツボと思われるところに貼ってい ただきき、約30~40分の診察を終わって診察室を出る頃には、診察に入った時とは大違いのすっかり楽な体の状態になっているのに心からた驚いたもので す。

煎じて服用するようにと処方された漢方薬を頂いて、帰りの道は来た時の苦しさが嘘のように楽になっていました。その時、何か生きる希望のようなもの を感じたのを今でもはっきり覚えていますし、横内先生の診察室に入った時に感じる体が火照るような温かさは、10数年診て頂いている今も変わりなく感じま す。

横内先生に注意されたことを忠実に守り、Yさんが毎朝煎じてくれる漢方薬を飲んで日毎に体力、気力が戻り、食欲も出てきて、薄皮を剥ぐようにという よりもっと確かな感覚で元気を取り戻していきました。煎じ薬も飲む前はさぞかし苦く飲み辛いものだろうと思っていましたが、想像に反してとても飲み易く、 むしろ楽しみながら飲めたものです。まるで体が求めているようで、むしろ美味しいとさえ思いました。

初めて横内医院に行った時には、あれほど苦しい思いをしたのに、2回目、3回目と出かけるたびに大して苦にもならなくなり、半年も経つ頃には元気が 体中に溢れてきて、横内先生の診察を受ける日が楽しみになったものです。初めの2年くらいはおおよそ、4、5週間に1度のペースで診察を受け、生活上のア ドバイスを頂き、薬も沢山飲みました。

北里病院ではもう手遅れと言われた私が、横内先生に診て頂いたちょうど半年後の10月17日には自分で運転して、長らく気になっていた亡くなったワ ンちゃんたちのお墓参りに府中のお寺まで出かけたり、11月には箱根の温泉旅行に出かけ、美味しいものをたらふく食べたり、カラオケを楽しんだり、もう すっかり普通の生活を心からエンジョイできるようになっていました。

ところが、好事魔多しとか、またまたこの時大変なことが起こりました。私の勧めで9月に町の癌検診を受けたYさんが、ほかの検診結果は異状なしで早 くに結果が届いていたのですが、胃癌の検査の結果がこないと気にしていたところ、新しい年が明けてやっと届いた結果報告の内容が、胃に異常があるのででき るだけ早くしかるべき医療機関を受診するようにとのこと。

あわてて北里病院に駆け込み、胃カメラ検査の結果あっさりYさんに「胃癌です。手術は早いほうがいいので、この病院でやるか、貴方のお住まいの近く の日赤病院に北里の先生が週に1度出向して手術をしているので、どちらかに決めてなるべく早く手術を受けて下さい」といわれました。

状況が一変して、Yさんに介護されていた私が、こんどはは介護する立場になりました。私の体のこともあり、結局近くの日石病院に決めて、1月中旬か ら日赤病院で再検査が始まり、1月31日から入院して2月7日に手術が決まりました。その間、私も結構バタバタと忙しく、かなり無理がたたって風邪を引 き、熱が出たりして2月1日に予約を頂いていた横内医院にキャンセルをお願いして、漢方薬だけを郵送して頂くようにしたのですが、薬の煎じ方も分からず、 食事の用意も自分でやらなければならず、頼りにしていたYさんがこんな状態になったことで、何かと弱気になったりしましたが、わずか7、8カ月で、こんな ピンチも乗り切れる体力と気力を取り戻している自分に、今さらながら横内先生に感謝したものです。

2月24日には、Yさんが無事退院しましたが、日赤病院からは抗癌剤を含めた胃薬だとか、栄養剤のような薬が山ほど出されていました。私自身には、 抗癌剤に抵抗があり、Yさんにも、ほかの薬はともかく、抗癌剤は3月3日に横内先生の予約を頂いているので、そのときに先生にちょっと伺ってみたらどうか と提案しました。

彼も胃癌手術から退院してまだ1週間、そのタフさに今さら驚きますが、別にあっちが痛いとかこっちが辛いとかいうこともなく、以前のように私をエス コートしてくれて、横内病院に行きました。私の診察の後で、先生に事情を話したところ、「日赤病院で貰った薬を出してみなさい」とおっしゃってYさんが差 し出した薬を手にするなり瞬時に「これは飲んでも大丈夫、これは飲んでも飲まなくてもどちらでもいい」といいながら沢山ある薬の途中で「ああ、これは飲ん ではダメ、毒です」といわれた薬があり、その薬を見たところ抗癌剤でした。

その上、Yさんを診察して下さって「癌の手術がうまく成功していて、癌細胞がきれいに除去されているので、余計なことはしてはダメ、漢方薬も必要ない」とおっしゃいました。驚きました。それ以来、私にとっては勿論、Yさんにとっても横内先生は守護神的な存在です。

Yさんの日赤病院退院後にも、病院から電話がかかってきたりして、たびたび勧められた癌再発予防のための抗癌剤の点滴などにも、Yさんが迷わずきっ ぱり断ることができたのは横内先生のおかげです。抗癌剤もときには必要で、癌治療に有効なのかも知れませんが、ともかく、きっぱり断ったYさんもそれから もう10年以上、半年に1度のペースで横内先生にみて頂いておりますが、今でも癌の活動は一切ないと横内先生の太鼓半を頂いております。

さて、話は戻りますが私が横内先生が処方して下さる漢方薬を飲み始めて1年半か、もう少し過ぎたころだったと記憶していますが、あれほど飲みやす かった煎じ薬が少し飲みにくいと感じ始めた頃でした。いつものように診察を受け、パワーテストの結果「Tさん、癌に関する漢方薬はもう飲まなくて結構で す。ただ、便秘の傾向がまだあるの で、便秘の薬はもう暫く続けましょう。癌の心配はなくなったけど、便秘も決してバカにしてはいけないですよ」とお笑いになりました。

本当に心の底からほっとした瞬間でした。その後も勿論現在まで、2~3カ月に1度は、必ず先生の診察を仰いでいますが、それ以来癌に関する漢方薬は 今日まで今のところ一切頂いておりません。ただ、突然視力が落ちたり、急に足がむくんだり、この十数年の間には、私の年齢のせいもあっていろいろな症状が 出ますが、その都度、最適な処置を頂き、必要とあれるば漢方薬を処方して頂いています。

心臓近くの血管にバイパス手術

現在は北里病院を辞められて相模原市で開業されているS医師に、肺、血圧、糖尿等を診て頂いておりますが、1年半ほど前のことですが時々調べる心電 図で、多少気になるところがあるので、近くの協同病院に紹介状を書くので、詳しく調べてもらうようにと指示を受けました。協同病院に行ったところ、手首か らカテーテルを入れて血管を見る検査を受け、心臓の近くの血管が2カ所ばかり細くなっており、すぐにもバイパス手術で血管を広げるようにとの診断を受けま した。

さらに、左右の足の付け根の血管もかなり細くなっており、このままだと、歩けなくなる恐れがあるので暫く入院して手術を受けるようにとの診断でし た。入院の期間は大体1カ月位とのことだったと思いますが、その時ももちろん横内先生にご指示を仰いだところ、カテーテルでできるはずだから、メスで切る 手術ではなく、カテーテル手術なら体の負担も少ないし、入院日数も少なくて済むので、その手術なら受けてもいいとアドバイスを頂き、その旨を協同病院で申 し出ました。

共同病院では、それはかなり難しいことだと言われましたが、私があくまでカテーテルにこだわったところ、結局病院が折れてくれ、心臓周りの血管にス テントを2か所挿入して3日間入院し、1カ月ほど間を置いて右足の血管を広げるのに再度3日の入院ですみました。過去の交通事故のせいだと思うのですが、 手足の痺れや痛みがあり、手は右、足は左の方が辛かったのですが、結局左足の方は血管が細くなりすぎて途中でなくなってしまっているので、手術ができない といわれました。

後に横内先生にそのことを申し上げたら、血管が消えて無くなるなんてことはあり得ないとおっしゃいましたが、左足は手術をして貰えませんでしたが、右足だけでも歩くのが大変楽になりました。

十数年前、北里大学病院で余命いくばくもないと宣告された私が、80歳近くなったいまも心安らかに、いろいろな趣味を楽しみながら、元気一杯で暮ら していられるのも横内先生のお蔭と心から感謝して居ります。元北里大学病院のS医師も、現在は相模原市で開業医をしていらっしゃいますが、私の元気にいて いられます。

S医師には随分痛い思いをさせられましたが、それはそれなりのステップがあって、おかげさまで今があるのだと心より感謝しています。もちろん、苦し い時に親身になって助けてくれたYさんにも心から感謝、皆様本当に有難う御座いました。そしてこれからもどうぞよろしくお願い致します。

横内先生の言われる「今は癌の心配より交通事故に気を付けて」の言葉を忘れずに一生懸命生きていきます。最後にまた余談ですが、7年程前に、Yさん とふたりでふと立ち寄ったペットショップで見かけたマルチーズの仔犬を、その可愛いらしさのあまりに、ほとんど衝動的に買ってしまい、ちょうどその頃に、 誰かに捨てられて我が家に迷い込んで来た猫の子と一緒に飼育しています。もう二度と動物は飼うまいと心に決めたことを、こりもしないでまた破ってしまいま したが、Yさんも私に負けず劣らず動物好きで、今はふたりともこの子たちに癒されながら、幸せに元気で楽しく暮らしております。

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横内醫院は癌や糖尿病、膠原病治療のため漢方薬の処方を行っています。
当院は完全予約制ですのでまずはお電話にてご相談ください。