私は何故癌と闘えたのか―7300日の記録―(卵巣癌:女性)

クチナシ

青天の霹靂

それは平成2年秋のことでした。あの頃は、癌告知をしていない時代です。そんな時期、私は乳癌となったため、告知も説明も受けなかったと思います。乱暴な組織検査は2時間に及びました。麻酔はキシロカイン液を患部へ落とすだけ、鋭い痛みは耐えられたものじゃありません。八針縫いましたが、胸部の傷はそのまま、6日後に一括し左乳房切断除去手術になりました。

術後は、放射線ライナック照射が治療の中心になりました。体力的限界線量まで続き、28回放射されました。この放射線被爆が後々の再発の引き金になろうとは、思いませんでした。私には2人の子供がおります。下の娘は小学3年の9歳です。「今は死ねない。絶対に死んではいけない」、深い祈りと共に、強く心に誓いました。文化の日の前日で私は、43歳でした。

卵巣癌みつかる

乳癌自体は、特別な症状が続く訳ではありません。術後は序々に普段の生活を取り戻していきました。ある日、長男が腹痛や嘔吐を訴えるので、かかりつけのS医院に連れて行きました。院長のS先生は、小児科、内科、外科よろずこなしましたが、ご専門は産婦人科、特に婦人科に定評がありました。S先生は、私をチラリと見るなり、「せがれは心配ない。お母ちゃんが大変なことになっとる。おーい、カルテ1枚持って来い」と、S先生は医学部時代の教科書を私に示し説明を始めました。それは胃癌や乳癌罹患者だけに起こる同時進行癌で予後は極めて悪いのです。造影した私の卵巣写真は、教科書の映像と全く同じで驚きました。

「どうする?大きいところへ行くか」、S先生は下半身麻酔で、手術はご自分1人でやるというのです。「先生、こんなお勝手みたいな手術場で大丈夫かよ」と聞くと、「うん。手術は俺大丈夫だよ」と言われました。そこで、「私の服の上から病気を当てたのだ、この先生にお任せしよう」と決心しました。

平成12年9月1日、初めての手術の日、9歳だった娘は、外語大学2年生になりました。その娘が手術室をのぞいてきては、「母、手術室、こうこうと灯りがついて、看護婦さん達、包丁カチカチ並べてるよ」なんて報告にきます。小心で臆病な私です。震えていました。

手術中は半身麻酔なので、意識ははっきりしています。「先生、約束時間オーバー。何やってるの~。終わりにして」「う~ん。あと少し。今ノミで石灰化した細胞壁剥がしてるからな」「ヤーだ!ノミって、先生なんで大工仕事するわけ……」と、私が騒ぐので小さな医院のスタッフは全員手術の手伝いをすることになりました。

いかにせよ不思議です。癌の病巣部は石灰化し、癌細胞の死滅した痕が何カ所にも認められます。S先生は、「こんな手術はしたことがない。すぐ大病院で調べてもらう」としきりに首を傾げています。退院後もS医院に通っていましたが、同時に思いもせぬ珍事が起きたのです。私の父はわがままで身勝手で、家族は辛酸をなめました。しかし、その父も八十路を過ぎ今は温厚な老人になっていました。

「幸子、気を確かにもってしっかりね」なんて電話がきました。父は房々の白髪を七三に分け街へ買い物に行くのが趣味になっていました。ゆうげには礼拝し、「僕は、これからもずっとお母さんと暮らしたい」といい、寝しなには、「苦労かけたね。お母さんともこれでお別れだ」と……、それきり父は目覚めることなく明け方5時に急逝してしまいました。いつも気障な言葉を発し、母の心を迷わせていた父だったので母は、「また、お父さんの口癖が始まった」と思っただけでした。

最期の苦悶の跡もなく、枕を並べていた母でさえ気づいてやれなかったのです。検死の医師は、母に「死亡診断書には心不全と書きますが、間違いなく自然死です」と告げました。しかし、父の死を機に私はどんどん快方に向かいました。穏やかな小春日和が続き、やがていつしか癌を忘れていきました。娘も、国立大学の大学院へ進み、修士課程を修了するまでに育ちました。「道の奥」の高原の村に住み私は幸せでした。しかし、この期に及んでも何ひとつ真理を知らないまま生きていたわけで、その私に、癌の再発は当然の成り行きでした。

病魔は忘れた頃にやって来る

「天才は忘れた頃にやって来る」と言いますが、癌の再発も忘れた頃にやって来ます。ある夜、今度は右乳房に硬いしこりがあるのに気づきました。平成2年の発病時と全く同じパターンです。「しまった」と思いました。

県内の超一流病院の乳腺外科の診察を受け、即刻手術をすることになりました。最初の発病から17年経っています。癌とはなんて執念深い業病なのでしょう。告知は当たり前の時代が来ていました。すでにリンパ節への転移が5個あり、深刻な再発が始まっていました。右顔面には良性の腫瘍ができ、この手術を終えないと抗癌剤が使えないと言われ、口腔外科で除去手術をしました。

顔にメスは使えないので歯茎を切り開き、周囲の骨を削りながら、新生物をかき出し、また縫合しました。もとより私は、小心で憶病な性格なのでこの時も大騒ぎでした。私の手だけを握っていてくれる看護婦さんを専属につけるよう頼みました。専属にされた看護婦さんこそお気の毒でした。

「すみません。2、3分休んでいいでしょうか。すぐにまた握ってきますから」などと、ひたすら患者に許しを請うのです。抜糸も終わり、顔も腫れが引き、ほっとしている所へ、今夜は静脈から抗癌剤が入らない。鎖骨の下へ抗癌剤注入だけのカプセルを埋め込む手術をやるというではありませんか。恐ろしい手術でした。

「さあ、始めますよ。大船に乗った気でいて下さい」なんて医師がいいますが、「手術台に乗っているんだから、大船に乗った気になんてなれません!」というと、医師は、「そうか、手術台に乗っているか!」と、変に感心しながらもグイグイ管を挿入していきます。ここでも私は大騒ぎし、助手の先生に付き添われエレベーターで病室へ送られました。

先生は、「この手術、本当はすごく恐いよね。僕は自分には正直できませんね」などと言います。「冗談じゃねえ!そんな慰め方無責任だろう!」と思いましたが、ついに苦しい抗癌剤の治療が始まりました。私は発病前、県南生協の平和委員として活動してきました。小学6年生の時、祖国が世界唯一の被爆国なのを知り、いつかはその街の人々に裨益(ひえき)する仕事がしたいと思うようになりました。

かわいそうなふたつの街の取材を重ね、もう50年足が抜けずおります。その絶望的な結末に押しつぶされ、精神病院にも3度入院し、30年うつ病を患う身です。抗癌剤の副作用は、私が現地で見聞きしていた急性放射能症の病状に酷似していました。

病院側の説明では、「この先3週間ごとに6回抗癌剤を投与する。その後6カ月休憩し、正月明けから3月まで放射線治療のため入院。その後ホルモン剤を5年服用してもらい、5年後には笑って会いましょう」というのです。抗癌剤、放射線、ホルモン剤の3点セットで、お決まりの癌治療を受け入れたら?私は、この時、「この病院に殺される!」と確信しました。

「逃げよう」、(問題発言を恐れずにいうなら)親切な主治医、優しい看護婦さん達でしたが、平成19年5月31日、一事退院のお許しを得た私は、もう二度と病院に戻りませんでした。これから具体的な診療計画をはかって治してくれる所を捜さなければなりませんが、何の当てもありません。病院の食事は工夫されており、美味でしたが、毎朝180ccの牛乳パックが必ず付きました。当時の私には乳癌に牛肉や牛乳が悪いなんて想像もできず、乳製品に目がない愚かな患者でした。

横内先生との出会い

発病時9歳だった娘はもう26歳。丸の内の会社に就職し、恋人と一緒に暮らし始めました。娘は多忙な日々を送りつつも、私を助けたい一心で横内醫院を見つけてきてくれました。母の命を助けたい一心で、どのようにして横内先生のご存在を捜し当てたのか、今では思い出せないと言います。平成19年6月12日、私はツルツルになった丸坊主で、夫と娘に連れられ横内醫院の扉を叩きました。すでに「究極の癌治療」と「末期癌の治療承ります」は読んでいました。目からウロコが落ちるとは、正にこのような情景の表現にほかなりません。反復し何度も忘れないようその都度知りたい事柄は拾い読みしました。

玄米食は嫌いなので、ほとんど摂った記憶はありませんが、牛乳はご飯にかけて食べるほど、大好物でした。恐ろしい勘違いをしたものです。診察の夜、横内先生は噛んで含むように教えて下さいました。

医療法人社団永羅会横内醫院との運命的な出逢いは、そのまま私の学校になって行きました。苦しい治療が今は何もありません。病状は落ち着き、苦痛ゆえ弱まっていた体力や免疫力も段々良くなっていきました。半導体レーザーによる診断結果と治療法やパワーテストは、痛めつけられた肉体に福音をもたらしました。こんな安らかな治療が、病のそばにいてくれたら、それだけで病む身は強くなれます。

おさだまりの癌治療で苦しむのはもうご免です。患者ひとりひとりの治療方針が違っているのも素敵です。総合医療にも希望がいっぱいです。我々癌患者も真理を知れば迷える小羊になりません。横内先生が命を賭けて、市井の凡人として立ち直らねばと思っています。とはいえ日進月歩の速度が急激な横内医学です。克服への道程は、決して楽ばかりじゃありません。

横内醫学の実践には、手間も暇もかかります。漢方薬の煎じだけとっても毎日の仕事です。盆も正月も休めません。気功を当てます。あいうべ体操です。日光浴、午前午後屋外に出れば30分以上、6千歩以上の距離を歩き、食事は一口30回以上噛んで食べ、水素水も飲まないといけません。和食中心のレシピ、パセリを食べて重金属排除。横内正典先生の脳波サウンドを聴いてしばし休憩。その上歯科治療の予約日には町までお出かけです。やれやれ忙しいことよ。私は小心で憶病な性格なので、手抜きをしません。忍び寄る病魔に再び占領されぬよう……この律儀さが、いつか私のすべてを変えてくれるその日を信じて。

横内先生のご尊顔を拝するようになり、見事な風貌に感動し憧れています。「あんなお顔になれたなら。おツと待て!私は女性、年甲斐いもなく厚かましいが、ここは大和撫子を目指そうではないか……!」

横内先生が、中華人民共和国旅順市のお生れと知るのは、自らのご著書での「著者紹介」を見ているからです。旅順といえば、日露戦争の激戦地です。日本は苦戦に苦戦を重ねたやっとの勝利でしたが、その後の祖国の近代化を位置付ける歴史的原点になった出発の市でした。

明治天皇崩御の暁には、夫人と共に日本国最後の殉教者となる乃木希典将軍も立派なお髭をたくわえた武人でした。横内先生にも武人の血脈を感じます。ご尊父横内勘吾氏が軍医であったことは、かのご著書で述べられる通り、長男としてその血を濃く引き継がれたのでしょう。癌治療一筋に一生を貫こうとするお姿は、武人の魂を生きたご尊父のご教育の賜と思われます。

「旅順」とは旅の順序と書きます。この地からいのちの旅を続けた横内先生には、特別の意味を持つ運命の地であり、その恩恵にすがって生きのびることが出来ている我々にとっては、正しく真理の道程(順序)を教えている市ではないでしょうか。気功や漢方医学も中国無しで語ることはできません。「旅順」は、ユダヤのベツレヘムと匹敵する聖地と考えられます。横内先生のご生誕はそれ程の価値のあることだったと私は思います。

6度の手術を乗り越えて

平成22年11月10日、私は抗癌剤注入のため埋め込んだままのカプセルを取る手術に入りました。メスを捨てた横内先生にはお願いできません。私は心を決め3年ぶりに逃げ出して来たかつての大病院へ電話したのでした。当時の執刀医が1人だけ残っていました。

「どうしていた。元気なのか!」「ピンピンしています」「エーツ!すぐに来なさい!」と言われ、驚いています。問診は2時間に及び、執刀医は別室へ私を連れて行きました。治療途中の私のぶ厚いカルテが卓上にありました。

執刀医は手術痕を触診したり、聴診器を当てたりしています。胸部のレントゲン撮影を撮り、静脈から血液を何本か取っています。「よ~く、ここまで治りましたねえ。あなたの選択は正しかったのですよ。勝ったんですよ!あなたの判断がね。うちの病院を変えられたのよかったですねえ。だって元気だもの。顔色いいし、へえ~。いろいろ治療には選択肢があるのですねえ」ため息をついています。

「それでね、あなたが今治療を受けてる先生のお名前と漢方のお薬を教えて下さい」カルテに記録しています。「あのね、手術は簡単です。今からこの部屋のベッドの上でだってできるし、そうしてる患者さんも多いのですよ。でもね、あなたの様子を見てますとね、この横内先生がどんなに丁寧な治療をしてこられたかよく分かりました。4年近くあなたはこの小康状態を続けて一般人と同じに暮らしてたのですからこの先生はただ者じゃない!僕も手術は万全の体制でやります」

「え~ツ!」今度は私の方がたまげて腰を抜かす番です。とにかくとにかく、嬉しいことです。横内先生の腕前を快く評価したのは、この先生が初めてだったのです。信頼関係にある先生に執刀していただくのは何よりです。手術中も、「今ここをこのように切っていますよ」とか「管はここの部分を引っぱってますよ。これから少し違和感がありますよ」などと説明しながら進めていただきました。

手を握る専属さんもいらず、初めて冷静な手術ができました。傷の消毒にあと1度通院すれば手術は完了です。私は乳癌より心臓の持病「心房細動」に苦しんできました。それがどうしたことでしょう。いつも、120台を打っていた心拍数が手術中から60台の平均値に戻っていったのです。手術室のモニターは終止血圧と心拍数を測っていました。心臓の動きを妨げていた管がなくなってから4週間、心拍数はずっと60~70台です。血圧も正常です。なんて楽なのでしょう。横内先生からは「早く取ってもらいなさい」と言われていたのですが、延び延びになっていました。

明日は明日の風が吹く

思えば、9歳の幼い身で、家事をやり親を1度も困らせず、大学院の修士課程を終え、恋人ともう4年も一緒に暮らしている娘は29歳になりました。恋人の青年もK大学の准教授になり娘を養えるようになりました。私の健康状態に合わせ、2人は平成21年4月18日、故郷の氏神様が祭られている神社で結婚式を挙げました。

横内先生からも、この日ばかりは、牛肉やケーキ、アイスクリームをたべてよしとのお許しがでました。ここぞとばかりに食べようとしますが、私の食生活が以前と変わってきているのであまり食べられませんでした。

今は、魚や肉にも欲がなく、梅干、らっきょう、とっくり芋、しその実などがご馳走です。それから精神病になって入院中の長男は、どの抗精神剤も効かず横内先生のご診断を仰ぎたいと思っていましたが、パニック障害を起こしているだけと判明し、興奮状態が消え次第退院できることになりました。試行錯誤の末、長男が精神を病んでいないと結論づけた老医師は、一病院の勤務医として50年の勤続はさすがです。

しかし半導体レザーによる診断やパワーテストを知っていれば、長男は強い薬を次々投与され人間破戒寸前まで追い詰められ苦しまずに済んだはずです。横内先生のご了解も得ず勝手をしておりますが、私が服用中の抑肝散加陳皮半夏と桂枝二越婢一揚加減を多めに煎じ飲ませています。担当の男性看護師さんが引き受けて下さり、午前一番煎じ、午後に二番煎じ、ナノ水素水も飲ませてもらっています。

横内先生から私への完治のご診断はまだ出ていません。それでも、かつて私の主治医で最後の手術をして下さったK先生からは、「あとは完治を楽しみに、のんびり克服して下さいね。この分なら大丈夫!」と、太鼓判を押されました。今、私の心の奥では揺るぎない自信が棲息しています。

横内医学を修得してきた私の肉体に、もはや癌は棲息する余地すらありません。未熟者の私を、ここまで勉強熱心にしてくれた私の癌です。決してすべてを恨んでなんかいません。だのに軍配の勝ちどきは私に上がるはずです。哀れ癌よ、さらば、今度こそ……。だから私の最終学歴の学び舎、永羅会横内醫院。

日本の首都東京の東中野駅前通り、ささやかな(失礼)ビルの一室から、今日も究極の癌治療を説き、癌疾患克服に心血を注ぎ、実践し、数多の人と医学界に真実を発信し続ける医師がいる。病める人よ、病める時代よ記憶せよ!手を伸ばせば治してくれる医師が、この現実の巷にたった今も存在している。

ゆく川の流れは絶えずして
しかも元の水にあらず
恩師横内正典先生、ありがとう時の流れ

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