肺癌から生還した患者のひとり(肺癌:男性)

ハイビスカス

肺癌が発見されるまで

私は18歳頃から強いタバコをずっと吸い続けて来たので、専門知識のない私でも、肺癌になる可能性は高いと思っていた。しかし、両親は早く亡くした ものの、兄弟は現在でも元気にしている。我が家は癌の系統ではないので、まあ大丈夫だろう、と楽観的に考えていたのは、事実である。

そんな矢先、偶然テレビで早期発見や早期治療を目的とした、「東京から肺癌をなくす会」のことが放映されているのを見て、さっそく入会した。入会し たのは、昭和58年、50歳の時である。「肺癌をなくす会」では半年に一度、レントゲン(途中からCTスキャンに変わる)と喀痰検査をして判定している。

入会してから12年間は無事に過ぎた。ところが、平成7年10月の検査で影が見つかる。この時、私は62歳で製薬会社定年後、知人の会社に勤務中 だった。「半年前にはなかった影があります。ただ、これくらい小さなものは取ってみて(生検して)初めて、癌かどうか判るので、まだ何とも言えません。

私一人の判断でなく、専門家が集まって、検査してから結論を出します」と医師は言った。この時私は「まさか、なんでこの私が、間違いであってほしい」と思った。

肺癌の告知を受ける

再び「肺癌をなくす会」から呼び出された。「検査の結果、やはり癌である可能性が高いと思われます。手術でとってしまったほうが良いのではないで しょうか」と専門医から癌告知を受けた。ある程度覚悟はしていたものの、改めて癌であることを宣告されると、やはりショックである。一瞬、口が乾いたこと を覚えている。

「なぜ口が乾くのかなあ、口が乾くのは、自律神経の作用であって、自律神経そのものは自分の意思とは無関係なのに、なぜだろう」とつまらないことを 考えていた。また、医師は私の顔をほとんど見ずに、CTスキャンの画面ばかり見ていたように思う。“癌は死に至る病である”というのが世間一般の共通認識 になっている。治療の決め手がない癌の告知をするということは、ベテランの医師でさえ、辛い役目ではないかと、思った。

自分では冷静に受けとめているつもりでも、あれやこれや、いろいろなことが頭の中を駆け巡り、混乱していたようである。一通り説明を聞いたあと、 「先生、私はかなりのヘビースモーカーですから、その結果なのですか」と聞いたら、「それとこの癌は違います。この癌はこのまま放っておいても命に別状は ないですよ」と付け加えた。

今考えてみると、この「2、3年放っておいても命に別状はない」の一言で、私はどんなに勇気づけられたことか。さしづめ、死刑囚が執行猶予を言いわたされたような気分であったことは間違いない。「肺癌をなくす会」を出て帰路につく。

精神状態が混乱したまま家に着いたとしてもろくなことはない。ここは冷静にならねばと思い喫茶店に入り、コーヒーを飲みながら思索した。まず最初に考えたのが家族のことである。誰もがそうであるのように、一家の大黒柱として当然なことである。

私は晩婚であるため、家内は私よりずっと若く40代半ば、息子は大学、娘は高校に在学中でまだ親がかりである。やはり家族のことが一番気になる。医師が言ったように、あと2、3年でなく、最低でも4、5年は何としても頑張りたいと強く思った。

また、このことを家族に報告しようかどうか迷ったが、隠していてもいずれ分かるのだからと思い、帰宅後すぐに家内に話した。「やはり癌であったが、2、3年は放っておいても命に別状はないと先生は言っていたし、早期発見なのだから大丈夫だ」と努めて明るく話した。

野菜を刻んでいた家内は、振り向きながら「あらそう、それは良かったわね」と言った後、黙々と家事を続けていた。その後姿から、心の内の動揺するさまが、はっきりと見てとれた。気丈と思えたはずの家内でも、二の句がつげないほど動揺していたのだろう。

また、夕食の時には子供達にも話した。一家団欒のはずの“夕げ”が味気なく過ぎ去ったことは言うまでもない。わりあい楽天的な私でも、さすがにその晩は寝付きが悪かった。友人を含め、数名の方が亡くなっているのを見ているし、早い人は半年から1年で亡くなっていった。

医師の言うように“2、3年もったとしてもそれまでかな”と思ったり、朝方までは寝付けなかった。また、患者である私より、私を見守る家族のことを考えると、そのほうが辛かった。私にとっては、この日が一番不安であった。

しかし、あくる日は通常通り出勤した。「肺癌をなくす会」では、手術のときは「国立がんセンター」に紹介すると聞いていたので、それまでの間、冷静 に勤務することを心掛けた。だが、この時はまだ、私はこれから先、生きていくための心のより所を、何に求めていくのかのイメージがつかめていない状態で あった。

そこで思い出したのが、曹洞宗開祖である道元禅師の「正方眼蔵」である。これは、私がまだ若かりしこの上司から、数々の教訓を得たうちのひとつであ る。カントの哲学から、宗教、経営学等々、多岐にわたったが、いずれもその一節をとり、“指導者たる者かくあるべし”と教えられたものである。

私が「正方眼蔵」を選んだ理由は、もしかして、これを読んだら「悟り」を開けるのではないかとの思いからである。今に思えば噴飯ものである。勿論 「悟り」など開けない。「悟り」が何であるかも分からずに、そんなもの理解できるはずがない。でも、何回か読み返しているうちに、心が落ち着いたというの か、何となく安らかになったことを覚えている。

しかし、万人がこうであるとは限らない。どう思うかは、全く主観の世界であり、他人が介入できない領域であるからである。だが、間接的には“情報の共有度”とあらかじめ待っている思考枠が大きく影響するもので、共感を得られる場合があるかもしれない。

毎日通勤しながら思った。癌だからといって、悶々と過ごすよりも、今までのように変わりなく過ごそうと覚悟を決める。少なくとも“死ぬために生きて いるような生活”は絶対したくない。そう思いつつ日々を過ごしていた。そのうち徐々に恐怖心もなくなり、いったんはやめたタバコをまた吸い始めた(横内先 生に叱られる)。

胸腔鏡手術で8個の癌のうち1個をとる

平成7年11月「肺癌をなくす会」から紹介されて、「国立がんセンター」に行く。精密検査の結果、手術することを決意、平成8年2月26日「がんセ ンター」に入院した。入院時に家内と一緒に主治医から説明を受ける。主治医の説明では「この癌は線癌です。まだ小さいけれど8つあります。今回手術するの はそのうちのひとつです。ただ、困ったことにひとつは心臓の近くにあり、手術ができません。その時は別の方法を考えましょう」とのこと。

一難去ってまた一難かと、何とも言いようのない複雑な気持ちであった。しかし、死に直面しているとか、そのような恐怖心がほとんどなかったことが、不思議なくらいである。

また、入院中は退屈だから、この際、読書をしようと思い、3冊の異なったジャンルの本を持ち込み熟読することができた。同室の者から、“この期に及んでもういいでしょう”と言われたが、私にとっては興味のあることが理解でき、いい時間を過ごせたと思っている。

手術前の検査を順調に進み、ある日何の検査だったか記憶がないが、検査終了後、医師から「明後日、気管支鏡検査があります。その際テレビカメラにお さめたいのですが、ご協力願えないでしょうか」と要望された。医師によれば、今までも協力願いをしていたが、いずれも断られ今日に至っているとのこと。所 要時間は1時間半程度、生命の危険はないと説明を受ける(この検査を受けた知人の話によれば、かなり苦しかったと聞いている)。

しかし、製薬会社に身をおいていた身にとっては、薬業も医療も同じこと。この身で役に立つならばと思い即座に了承した。検査は、1回目、2回目と順 調に進むが、3回目に入り、かなり咳き込む。4回目「どうですか、まだ大丈夫ですか」と聞かれたので、OKのサインを出すも、管が入らない。それを見た医 師が「これはもう無理です。もうやめましょう」といって終了した(後で聞いた話だが、通常の倍以上の時間がかかったとのこと)。

あくる日、ベットまで主治医と担当者が来て、長時間苦しい思いをさせたことを陳謝し、謝辞を述べられた。予定通りの成果を上げられたことを聞き、報われた思いであった。

3月1日手術

全身麻酔で手術というのは初めての経験だったが、患者にとっては、まったく楽なものである。その半面、医師とそれに関わる方々は、全神経を集中して 真剣に取り組んで頂いたことを思うと、ただただ感謝するのみである。手術後も順調に回復し、3月7日に退院する。退院する時、体重を量ったら何と2kg以 上増えていた。

看護婦さんから「皆さん体重を減らして退院するのに、増えた人は始めてですよ」と笑われた。入院中、築地のすし屋にこっそりと行ったことはあるが、 別にご馳走を食べたわけではない。戦前生まれの者は“出されたものは残さず食べろ”と教育を受けていたので、そのようにしていたら、どんどん量を増やされ たのが効いたのだろう。手術後の抗癌剤や放射線の治療は一切していない。

職場復帰

退院してから十日後には職場復帰し、平穏無事な日常生活が戻ってきた。2カ月後には、スポーツセンターに出かけ、水泳やらジョギングなどできるようになっていった。
心理状態もきわめて順調であり、当然酒席の付き合いも復活した。たまたま、久しぶりに学生生活時代の友人3人と酒を飲む機会があった。

そのなかのひとりが横内醫院の患者だったのである。その友人は、学生時代から沈着冷静なタイプで、ジャンボジェット機の機長を勤めていた。横内醫院 から心臓の治療をしてもらったその友人は、「本当は癌の名医らしいよ。騙されたと思って行ってみるといい。紹介するから」と勧めてくれた。

また、健康保険はきかないが、“現代の赤ヒゲ”といわれる方で、料金は廉価であるから心配しないでよいなどの説明を受ける。術後の体調が悪いわけで もないし、残りの癌のことを心配したわけでもなかったが、せっかく勧めてくれるのだから“行ってみるか”と軽い気持ちであった。

横内醫院初診

平成8年8月30日。横内先生の初印象を率直にいえば、一見風変わりな、それでいて強烈な個性の持ち主のようにお見受けした。しかし、別に威圧感もなく、私の経過説明をにこやかに聞かれている様子からは、むしろ温和な温かみさえ感じた。

初診でパワーテストによる診断の結果、やはり癌の活動があり、悪性の進行癌であることを告げられたが、この時にはもう分かっていることであり、何の わだかまりもなく、素直に受け入れることができた。そこで癌体質改善薬と体力増強の漢方薬、およびクラミジア・トラコマティスを殺すための抗生物質が、そ れぞれ2週間分ずつ処方される。

この他、先生の気功のエネルギーが入った布テープも処方され「ツボ」に貼り付けするよう指導を受ける。さらに食事や電磁波対策などの、日常生活にい たるまでの指導を受けた。漢方薬、抗生物質も指示通り服薬し、特に左手中指に気入りテープを貼り、1日100回は爪を揉むように指示されていたが、多いほ うが良いと思い1日200回近く揉み続けた。

2回目9月13日通院。パワーテストで診断の結果、すでに癌の活動がなくなっていることを告げられた。初診からまだ2週間しかたっていないのに、と 驚き、まったく信じられなかった。私ばかりでなく、誰でもが信じられないと思う。最先端の大病院が、高価な診断機器や、大勢の人材を集めてもなお、悪戦苦 闘しているのに、いとも簡単に2週間で進行が止まったなんて、不思議としかいいようがない。このときは、私はまだ半信半疑であった。

3回目9月27日通院。パワーテストで診断の結果、癌の活動も止まり、クラミジア・トラコマティスもなくなっていることが判明。初診からまだ1カ月 である。漢方薬は少し変わる。抗生物質は不要となり、順調に回復していて、通院は3週間毎になる。一方、「がんセンター」には、半年に一度通院していた。 CTスキャンによる検査で、まだ7個の影があると診断され、このようなことが平成12年まで続く。

横内醫院通院 平成9年2月。パワーテストで診断の結果、癌の活動はない。漢方薬は前回と同じ。「7個の影のことは心配しなくてもいいですよ。横内醫院で治療した患者さ んで、癌の活動が「ない」から「ある」に変わった人はおりません」と横内先生から太鼓判を押される。この時であったと思う、タバコを吸っているのが先生に 知られ、先生から「癌をなめてはいけません。恐ろしい病気ですから」とお叱りをうける。その眼差しの中に、「必死で患者を直してやろう」という。熱い思い を感じた。チャランポランであった自分を恥じ、以降、キッパリと禁煙した。

肺癌の完治

横内醫院通院 平成10年9月。パワーテストで診断の結果、漢方薬がいらなくなった、と診断される。横内醫院の治療が一段落したわけである。「がんセンター」で手術して から2年半、横内醫院での初診から2年である。横内先生から「良かったですね。おめでとう、ただし癌の活動が停止してから5年経たないと、完全に治癒した とは言えないので、検査に来て下さい」と念を押される。

平成10年12月、パワーテストで診断の結果、異常なし。体調もいたって快調、快適な日常生活を過ごしている。以降毎年1回検査通院すると、平成12年まで同様なことが続く。

平成11年、「癌治療革命の先端 横内醫院」出版のため、著者の広田和子氏の取材を受ける。この時は自分が体験談を記すことなど考えたこともなく、事実に基づいてお話した。従って本文の全体の流れや、同文の箇所があることをお許し頂きたい。

済生会病院通院

平成13年、「がんセンター」の主治医であった先生が、済生会病院に移られたので、以降、済生会病院に通院する。3度目の通院時だったと思うが「7 つあるうちのひとつが成長したので手術したほうが良い」と指示される。しかし、私は横内先生から「そんなのは癌ではない。癌の活動がないということは、セ ミの抜け殻みたいなものだから、心配することはない」と説明されていたので、手術はしないつもりで聞いていた。

帰宅後、家内に手術はしないことを話したが、何とも煮え切らない。あくる日「万が一のことを考え、手術したほうが良いのではないか。勿論、横内先生 には従来通りでご指導を頂きながら、西洋医学と東洋醫学の両方で治療したほうが万全ではないかと思う」と手術することを勧められた。

しかし、私は手術するつもりはなかった。手術しない理由について、先生が平成10年に出版された「末期癌の治療承ります」や、「究極のがん治療」を引用し、私なりに時間をかけて説明した。家内は黙って聞いていたが、納得した様子ではなかった。

その後日が経つにつれ、口数も少なく、悶々としている毎日が続く。家内は、横内先生とは一度も面識はなく、私の数少ない説明で信用しろというほうが無理なのかも知れない。このままにしていて、いいのどうか心配した。この時ばかりは私も悩んだ。

手術をすれば信頼する横内先生を裏切ることになり、さりとて手術しなければ、この先家内がどうなるか心配であり、二者択一を迫られた。いろいろ考え たあげく、手術することを決断した。横内先生にお目にかかり、「手術することにしました」とお伝えしたら、先生は「そうですか。あなたとは長いお付き合い をさせて頂いたのに残念です」と非常に落胆された様子が今でも忘れられない。

私も“家内のため”だということは言わないつもりであったが、その場の雰囲気で話さざるを得なくなり、実情をお話ししたら、「そうですか、それはそうですよ」と言って下さったことがせめてもの慰めであった。しかし、理由はともあれ“裏切り行為”であることに間違いない。

心の中でも手を合わせ“申し訳ありません”と思いつつ退院した。済生会病院に行き、手術をお願いするも、今までの横内醫院との経過をはっきり説明し、従って私自身は手術の必要性は認めないが、家内のために行う手術である旨を伝えた。主治医は黙って私の話を聞いてくれた。

入院日が間近にせまるある日、主治医から「手術をしないでもよくなったので、説明のため来院してほしい」と電話があった。そこで、あくる日通院し た。主治医はジーと私を見つめてから、おもむろに「いろいろ検討した結果手術をしなくてもよい」との結論にいたったことを説明された。

しかし、主治医としては、患者が手術を断ったも同然であるため、“取りやめた”といのが本音ではなかったかと思う。ことの当否は別として、医師とし ての良心から手術を勧めてくれたのに、と思うと申し訳ない気持ちである。以後、当然ではあるが、済生会病院には通院していない。一方、横内醫院には、年1 回の診察のため通院している。

初診以来14年経った今でも、健康で毎日を過ごせるのは、横内先生の“新しい医療”の賜物以外、何ものでもないと思っている。ただただ感謝あるのみである。初めから横内醫院を知っていたら、あれこれ苦労せずにすんだものをと、かえすがえすも残念に思う。

振り返ってみると、私の命を救うため、多くの方々から、お力を頂いたことを思いだす。話は飛躍するが、「バラの木にバラの花咲く、何事も不思議なけ れど」と北原白秋は詩っているが、バラの木にはバラの花が咲くが、人間の力だけでは咲かない。適温が与えられ、春の陽ざしのなかで育っていく。

球根という「因」があって、花が咲くための土や水、太陽などの「縁」がよせられて、初めて美しい花という「結果」が得られる。私の身に例えるなら ば、「東京から肺癌をなくす会」で癌が発見された。つまり「因」である。そして「国立がんセンター」での手術や友人による「横内醫院」の紹介、つまり 「縁」であり、横内醫院“漢方と気功”の結果、完治、すなわち結果である「果」が得られたものである。

このように、その時々に係われた多くの方々のお陰で今日がある。それを思うと、時間的に限られた人生とはいえ、飲み食いだけでこれからの人生を終え るのは、あまりにももったいないと思う。そこで、肺癌から生還したひとりの患者として思うことは、なぜこの「新しい医療」が陽の目をみないのか、という疑 問だ。

その要因を横内先生は、著書「究極の癌治療」の中で説明されているが、私には医学の知識はないので、別の観点から見ることにする。話はややくどくな るが、中国の諺に、「咄比単板漢(トツコノタンバンカン)」という話がある。「中国がその昔、秦の国であった頃、時の皇帝が部下を十人呼び寄せ、5人には 右の肩に板を担がせ、残り5人には左の肩に板を担がせた。そして南京の街を歩かせて、見てきた様子を報告させた。右の肩に板を担いだ者は、左の様子だけを 報告し、左の肩に板を担いだ者は、右の様子だけで報告した。真理は1つ両方である」つまり見えないもの、知らないものは判断の対象にならない良い例であ る。

先生は著書の中で、西洋医学も東洋醫学も正しい学問であると述べている。つまり、両方の有用性を認めているのである。しかるに、東洋醫学を知らない医師が、東洋醫学を否定するのはおかしい。諺にあるとおり、見えないもの、知らないものは判断の対象にはならないはずだ。

このように両方を理解し、漢方医学を中心としつつ、適宜使い分けている医療と、片方だけに依存している医療とでは、誰の目にもその優劣は明らかであ る。また、これからの時代を担う、新しい治療法について「気功のエネルギーを癌治療の根幹に据えた究極の癌治療こそ、21世紀の癌治療である」と主張され ている。私も身をもって体験した患者の1人として声を大にして、このことを世の中に訴えたい。

医師横内正典氏とは

以上、ひとりの患者として、癌の発見から完治まで、その経過を述べてきたが、次に「医師 横内正典氏」の生き方について、私なりに感じたことを述べ たい。氏は、著書の中で、1969年、現代医学だけの治療では、癌は治せないと考え、漢方医学に活路を求めたとしている。そして1974年、針治療も学ん だが、末期癌患者を活かしきるところまではいかなかったと述べている。

1984年、気功とは一体何だろうか?ということで気功を学び、8年目にして始めて気を感じた。その間、気の存在に疑問を持つようになりながらも、あきらめずに人生修行のひとつとして、毎日座禅をし瞑想も続けた、としている。

これは言葉で言えばそれだけにしか聞こえないが、このことは大変なことであり、我々凡人のできることではない。ただひとつのことを続けていくということが、いかに大変なことか、言葉には言いつくせない。

患者さんの命を救ってあげたい、この一念にかけた氏の生き方は、まさしく修行僧そのものの生き方であると言いたい。先に述べた道元禅師の「正法眼蔵」でも、同じような教えを説いている。

道元は“純一無雑”という項で、“一事を専らにせよ”と説いている。これは氏の“癌治療に専念”する姿そのものである。また、我々の人生とは、時間 の一瞬一瞬より成り立つものであり、時間の連なりに過ぎない。従って、自分の一生を愛するものは、時間を空費させてはならぬ、とも言っている。

一事を専らにするにせよ、毎々毎々少しずつの積み重ねが大切なのであり、仕事でも、芸術でも、学問であっても、長い年月によって不断に磨かれたもの は尊い。成熟するには長い年月と不断の努力が必要なのである、と説いている。この教えも、氏の漢方医学に活路を求めた時から、気を感じるまで、実に23年 の歳月を要している。実に長い年月をかけた、かけがえのないものである。

ただ癌を撲滅するという一念が、努力をまっとうさせてくれたものと思う。そして、何といっても、著書の中にある言葉や、氏の生き方に“不退転の志 気”を感じるのは私だけではないと思う。本当に頭の下がる思いである。長い年月をかけ、努力を重ねた結果生まれた“新しい治療”を志のある多くの医師が、 実践に役立ってほしいと願っている。
我々もまた、声を大にして世の中に訴え、新しいパラダイムを多くの人々と、共有できるように心掛けねばならないと思う。

そして、明治以降の西洋医学中心の経緯や、現在の医学会の仕組みに埋没しない、新しい視野が必要だと思う。人間の視点を忘れた古い概念で作る秩序は 無意味であると言いたい。最後に次の言葉で終わりたい。「知りたるを、人に教えざれば、借りたる金を返さざるが如し」という格言があるが、横内醫院を知ら ない患者さんに告ぐ「騙されたと思って行ってごらんなさい。道は必ず開けますから」。

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